アカディア人の追放 
アカディア人はケベック州のフランス系(ケベコワ)とは異なる文化やアイデンティティを持つもう一つのフランス系で、プリンスエドワード島、ノヴァスコシア、ニューブランズウィックの3州において、英仏両帝国の争いによって数奇な運命をたどった人々の子孫である。1605年のポール・ロワイヤル建設 (現ノヴァスコシア州)に始まるアカディア人社会は、初期に入植したフランス人同士の結婚で広がった緊密な親族関係で成り立っており、ヌーベル・フランス住民とは異なる意識を持ち、自らを「アカディア人」とよんだ。フランス政府が彼らにほとんど関心を払わなかったことや、経済的にはニューイングランドとの結びつきが強かったことから、イギリス占領期に生まれた世代が増えるにつれフランスとの関係は薄れていった。双方の影響も受けならが、高度な技術を持つアカディア人は、堤防や海水の進入を防ぐ機能をもつ排水路を完成させるなど肥沃な農地を開拓した。
激化する英仏抗争の中で、戦略的にも重要な地域だったため、両者の征服、奪回が繰り返された。その中でアカディア人は「中立のフランス人」を貫いた。しかしながら1754年のヨーロッパ7年戦争に先立って開始されたフレンチ・インディアン戦争の敗北により、翌年、イギリス側のノヴァスコシア総督チャールズ・ローレンスはアカディア人の強制追放を開始した。結果、1万人以上のアカディア人の土地や財産が没収され、多くは南の13植民地や、イギリス、フランスに送られ、民族は分断させられた。この悲劇的事件は後にアメリカのヘンリー・ワズワース・ロングフェローの詩「エバンジェリン」(1847年)によって広く知られるようになった。
戦後、アカディアへの帰還が許されたが、彼らが開拓した農地はすでにイギリス人入植者に占領されており、不毛な地での生活を余儀なくされた。その後、彼等の社会は徐々に発展し、アカディア人のアイデンティティがアピールされるようになり、国民協会の設立、独自の国旗、国家を制定するなどして、文化の育成、維持が図られている。現在も、ニューブランズウィック州では3分の1以上を占めていて、英仏2言語、多文化主義政策の原動力となっている。
★ 2つのカナダの起源 ★
ケベック植民地:多民族国家であるカナダには大きく分けてイギリス系とフランス系に分けられます。イギリス政府は獲得したケベック植民地に同化政策を敷き、イギリス系の人口増加を期待していました。しかし、ケベック初代総督マレーは南からの移住者はほとんど増加せず、小数のイギリス系商人がカトリック信者であるフランス系住民を排した議会を牛耳ることになり、同化政策が現実的でないことに気づき、本国に訴えました。アメリカの13植民地の不穏な情勢を含め、ケベックを軍事基地とするため後任のカールトン総督は同化政策を放棄し、フランス系住民の指導者とカトリック司教を味方につけることが得策だと考えました。1774年にケベック法を制定し、フランス系カナダ人の民族的権利と制度が保障され、彼らの今日に至るまでの存続が可能となりました。
アメリカ独立戦争の影響: 1776年のアメリカ独立革命の影響により独立に反対した王党派(ロイヤリスト)の住民の多くがカナダ領内に移住し始めました。彼らのうち3万5千人はNYから回路で大西洋岸より内陸のファンディ北岸に集中して移住したため、ニューブランズウィック植民地が創設されました。また、陸路の王党派はフランス系の定住地を避けて、セントローレンス川の上流からオンタリオ湖、エリー湖北岸に移住しました。
ケベック植民地の分割: ケベック植民地西部に移住した王党派はケベック法化の不慣れなフランス式土地所有やフランス民法に直面しました。アメリカからの移住者も増え、イギリス系人口が増加したためイギス式の制度を導入する傾向が強まり、1791年にケベック植民地はイギリス系のアッパーカナダ、フランス系のロワーカナダに分割されました。ついに「カナダ」という言葉が始めて正式な名称の一部に採用されたのです。
Author--Bluepepsi--

参照:カナダを知るための60章 明石書店 写真:カナダ大使館ホームページより |